2019-06-14 第198回国会 参議院 本会議 第26号
島田先生は、消費税の導入に向けて竹下元総理が街頭で国民に訴える姿について、最終的には理解してくれると信じて行動していたと振り返り、このような竹下登先生を政治の師と仰がれていたと伺っております。 島田先生は、平成七年四月に島根県議会議員に当選され、以後五期連続十八年にわたり県政において御活躍されました。 その間、島根県議会議会運営委員会委員長、島根県議会副議長の要職を歴任されました。
島田先生は、消費税の導入に向けて竹下元総理が街頭で国民に訴える姿について、最終的には理解してくれると信じて行動していたと振り返り、このような竹下登先生を政治の師と仰がれていたと伺っております。 島田先生は、平成七年四月に島根県議会議員に当選され、以後五期連続十八年にわたり県政において御活躍されました。 その間、島根県議会議会運営委員会委員長、島根県議会副議長の要職を歴任されました。
かつて竹下登先生は、国会対策の妙は、野党の言うことを七割聞いて、与党のことは三割、これぐらいがちょうどいいとおっしゃいました。なるほどなと思います。 共謀罪が先日衆議院で強行採決されました。我々は堂々と本会議に出て反対票を投じましたが、乱暴な採決だったと言わざるを得ません。私、問題なのは、出口はあるんですよ、出口はあるんですけれども、そこで少数派の意見をしっかり聞いたかと。
平成元年、竹下登先生が消費税を導入されたときには、所得税も法人税も同時に減税を入れていますから、一人一人で見れば、国民全体でならせば、これは負担増になってないはずですよ、ほぼ。 そして、平成九年、橋本龍太郎さんが、橋本先生が五%引き上げをやった際も、同じく所得税の定率減税などを導入し、法人税も減税を入れ、ほぼレベニュー・ニュートラルだったはずです。
車体課税や住宅税制などなど、資料の最後につけておきましたけれども、もう時間が参りましたのでこれでまとめますけれども、実は平成元年、竹下登先生が消費税をお入れになったときに、非課税のものをこうやって分けたんですね。社会政策的に配慮したもの、そして、税の性格から、とりわけ住宅の貸し付けなんというのは非課税にしたんですけれども、家を買うときは課税のままです。マンションを買うときは課税のままです。
○内閣総理大臣(安倍晋三君) このパネルを見まして、山陰、特に島根県、山口県が大変厳しい状況のままでございますが、かつて青木幹雄先生もおられ、竹下登先生もおられ、そして安倍晋太郎もいたわけでありますが、非常にこれ公平にやっていたんだなという結果でもあろうと、自分の選挙区にどんどん持ってくるということではなくて。しかし、少し謙虚過ぎたのではないかという声も地元にはあるんだろうと思いますが。
私は、村会議員の後で県会議員もさせていただいておりまして、そのときに、私は当時、議場で、今も全く同じ思いなんですが、自民党政治が、あの平成元年に打ち出した竹下登先生の哲学や方向性、私はこれは継承されなかったんだと思います。私はそういう受けとめ方です。みずからの地域で考えたことを国が後押しする、今の地方創生と全く同じです。
○升田委員 かつて、竹下登先生、ふるさと創生事業といいましょうか、一億円を全国に。冒頭申し上げさせていただいたように、私はそのとき村議でございました。実は大感動をいたしまして、東京も一億円であったかどうかはわかりませんけれども、東京も一億だと思っていましたし、東京も一億、我が村も一億。 私の生まれた小泊村というのは、今は人口三千五百人ぐらい。
あるいは、竹下登先生のふるさと創生のときに、お互いに立場は違うが永田町におったと思います。私はどっちもすばらしい取り組みだったと思うんです、正直申し上げて。 言われるように、あの狂乱物価とかオイルショックとか、そういうものがなければ、列島改造というのは、ドイツのアウトバーンみたいな形で、インフラの整備という意味では非常に意味があったと思います。
後ろを振り返ると最後列に中曽根康弘先生や竹下登先生、安倍晋太郎先生など重鎮の先生方が新議員の品定めをすべく腕組みをしながら我々初当選議員を見つめていました。隣席の同僚議員に、「あそこまでたどり着くのは遠い道のりだなあ。」と語り合ったものです。
○古本委員 元年に竹下登先生が消費税をお決めになってから、御党の中は大変な苦労をしたわけですよ。やはり庶民増税ですから。だからこそ、この問題はさわらないで、みんな逃げてきたわけです。 私どもは、去年、愚直にこれに取り組んだんです。その際に、やはり行革といっても、この独法改革を初めとして、何年かかるかわからない。
歴代自民党の内閣が、竹下登先生が導入されて以来、村山さん、橋本さん、そういうことだったわけでありますけれども、やはり消費税というのはできれば政治家は避けて通りたいと思う中で、私ども民主党は、この消費税を何としてでも成立させなきゃいけないという思いと、他方で、今申し上げたような政治的なリスク、あるいは、国民に負担をお願いする以上、議員定数の削減やら行革やら、そちらが先ではないかという議論が真正面からぶつかり
きのうも竹下亘先生から竹下登先生の御苦労等もお伺いをいたしました。それぞれ、私よりもはるかに政権基盤が安定をし、ねじれてもいない国会の中でも、大変な御苦労をされたということであります。 そんな大きな課題でありますけれども、あえてここで法案として議論に供しなければいけないということは、それだけやはり待ったなしの状況がもう今まで以上に迫ってきている。
最後に、政界においてご指導ご鞭撻頂いた皆様、とりわけ河本敏夫先生、竹下登先生、梶山静六先生方に感謝を申し上げ、表彰に対する御礼の言葉といたします。 ………………………………… 逢沢 一郎君のあいさつ 私は昭和六十一年七月六日投票の衆議院総選挙で旧岡山一区で初当選をいたしました。以来衆議院議員選挙に連続八期当選、ここに在職二十五年を迎えることとなりました。
竹下登先生といえば、もう大蔵のドンみたいな政治家ですよ。もう全部すべてからくりがわかっている、そういう方が昭和五十七年の本会議で答弁をされている。ちょっと読みますよ。昭和五十七年度の公債の償還は、同基金にこれまで積み立てられた余裕金によって対処可能であり、国債費の定率繰り入れを停止することとしても、公債の償還には支障はない、だから繰り入れ停止をするんだと言っているじゃありませんか。
そのような中でも、多くの先生方に応援に来ていただきましたが、忘れもしないのは、故竹下登先生に応援演説をいただいたことです。演説が終わった後、竹下先生から、藤井君、選挙というものは、当選したらそれは皆さんのおかげである、落選したらそれはすべて自分の責任だと諭されたことです。このとき私は弱冠三十七歳でありました。
以前、もうお亡くなりになりましたが竹下登先生のお話を承っておりましたときに、改正条項まで含めて護憲だわなと言われたことを私はよく覚えているのであります。改正条項まで含めて護憲なのだ。そして、改正は衆参両院の三分の二の発議、そして国民投票の二分の一ということになっているわけで、憲法を改正するというのは、それは主権者たる国民の権利である。
そのときに、当時の内閣総理大臣が福田赳夫先生、自民党は大平幹事長、そして安倍晋太郎先生、竹下登先生、四人の先生がそろって、歌舞伎役者の女房で何の経験もない、政治的バックのない私にどうしても立候補しろというお誘いがございまして、私は、それまで二十五年間女優としてやってきまして、その女優の名前を全国区で政治献金できるのであれば、それは私は自民党への感謝の気持ちと思って、清水の舞台から降りるつもりで立候補
その日は雪が深く、タクシーも通らない早朝、雪を踏みながら出かけた我々の目の前で、当時の大蔵大臣竹下登先生に電話をし、「ともかく廃止や中止だけはするな、そのうち知恵を出して解決策を見付けるから」と事業継承を承認してもらった。この後事務当局の説得もあり、防災干拓として日の目をみることになったのだが、この時ほどひやひやしたことはない。
このとき、私は参議院に初当選し、ともに竹下登先生の下で国政に参画し、君の御指導を仰ぐこととなったのであります。しかし、それもつかの間、大きな政局の流れの中で分裂・離党となりましたが、君は、その間、慰留の気持ちを強く持ちながらも私の政治信条に理解を示し、有益なる示唆を与えてくれたのでありました。
次に、議長から、故竹下登先生に対する弔詞贈呈の報告がございまして、弔詞を朗読されます。 次に、議長から、永年在職議員として表彰されました故元議員梶山静六先生に対する弔詞贈呈の報告がございまして、弔詞を朗読されます。 次に、議長から、永年在職議員として表彰されました故元議員宇都宮徳馬先生に対する弔詞贈呈の報告がございまして、弔詞を朗読されます。
○事務総長(堀川久士君) 元内閣総理大臣竹下登先生には、去る六月十九日午前零時五十三分、呼吸不全のため、北里研究所病院において逝去されました。謹んで御報告いたします。 本委員会の理事会におきましては、協議の結果、お手元にお配りしてございます案文の弔詞をささげることに決定いたした次第でございます。